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近藤沼の歴史

近藤沼公園の歴史

利根川、渡良瀬川に挾まれた館林邑楽地区は、低湿地帯に属し、数多い池沼が点在する。
この近藤沼は、八重笠沼・多々良沼・城沼・板倉沼と共に、東毛の五沼と称され、自然環境の保護的な役割を果たしてきた沼である。
本地区は、館林市街地より西南方約四粁の地点にあり、純農村地帯である。地区中央部を農免道路が南北に走り、北は工業団地に接続している。地区を大別すると、南側の微高地自然堤防形の畑地帯と、北側の田沼地帯に分けられる。
近藤沼は、明治22・明治30年の2階に亘り、県知事の許可を受け、開墾造成がなされた。その堀上田は 自然を巧みに利用し、人の力に負うところが大で、舟により沼底の土を盛り上げ、又は、原野をクリーク上に堀削盛土して造成された、数多くの櫛の歯状の耕地である。筆数 344筆、面積 5.6ヘクタールで、将に農民の血と汗の結晶であり、戦中・戦後は勿論、近年に至るまで食糧需給の一端を担ってきた存在であった。しかし、舟による通作が、唯一の方法であるこの堀上田が、貴重な位置づけをしていたのは、今や過去のこととなり、畜力耕・米麦作一辺倒の時代から、機械化・特種作目への移行等種々矛盾が生じ、その存在意義も失われ、更に畑地帯においては、道路は狭小・曲折りが多く排水路は皆無の状態であった。偶々昭和46年度農免道路の完成を機に、新しい時代の農業経営に対応できる基盤整備を必要とする声がおこり、地盤造成・ほ場整備・用排分離・乾田化を軸とする本計画を樹立昭和49年4月10日県営事業として採択された。
地盤造成工としては、埋立と客土整地と大別し、採土地は、沼部17ヘクタールに求め、サンドポンプ船による浚渫方式をとり、板柵施行をなし実施した。かんがいは用水源を近藤沼に求め、揚水機場を設置、全地域パイプライン方式とした。

昭和50年年度着工以来7ヶ年、この間、県担当者の方々におかれましては、県内空前の、干拓を含む大事業に、誠心誠意事に当られ、卓越した技術陣の昼夜を分たぬご努力により、あらゆる困難を克服し、近藤沼周辺の景観を一変する見事なほ場が完成いたしました。
ここに県営近藤沼土地改良事業の完成を祝し、心からなる感謝を申し上げ、更に御昼力を賜った今は亡き衆議院議 長谷川四郎先生をはじめ諸先生方並びに館林市・邑楽町をはじめとする関係間機関の担当者各位、役員一同、その他諸々の方々に感謝を申し上げ、この近藤沼の一隅に郷土館林・邑楽並びに近藤沼土地改良区の地域の永遠の発展に願いをこめて記念碑を建立し、関係者の名を刻み後世に伝えるものである。
昭和63年3月吉日

 

事業の沿革

利根・渡良瀬川両川に挟まれた館林・邑楽地方には数多い池沼が点在している。なかでも、八重笠沼・多々良沼、多々良沼、近藤沼、城沼、板倉沼は東毛の五沼であり、各様に治水、利水の用に供されるとともに、自然環境の保護的役割をも果たして来た沼である。それぞれの時代によってその一部が干拓され、或は改良補修されてその要請を充たしてきたものである。
近藤沼も周辺を含めて長い歴史のなかで農民の血と汗の結晶である堀上田が造成され、戦中・戦後は勿論近年に至るまで食糧需給の一端を担って来た。しかし堀上田そのものが農民にとって重要な位置付けをしていたのは過去の事であり、畜力耕の時代を経て今や農業機械の進展に伴う機械化農業と、米麦作一辺倒から特種作目への移行等、各般の見地から農民の間に矛盾が生じ、その存在意義も失われるとともに、新しい時代の農業経営に対応できる基盤整備を必要とする声がおこり、地盤造成・ほ場整備・用排分離・乾田化を軸とする本計画が樹立されるに至った。
低湿地帯に存在する近藤沼地区は自然を巧みに利用した堀上田の造成によって耕地の拡大を計って来た。
堀上田の造成は人の力に負うところが大きく、古くは舟による沼底の土を盛り上げ又は原野をクリーク状に掘削盛土して造成された。沼の南岸下三林船戸部落に堀上げ田の功労者吉田丑郎翁の記念碑がある。この碑文によってその経過を知ることが出来る。

 

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